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贅言とは 言うまでもなく 言う必要のない事・・である


by tennkozann

二つの足場

二つの足場_f0211225_11153211.jpgかねてより私は物事を推進する際、必ずシッカリと二つの足場というものを認識しておかなければならないと思っている。
一つはロマンチストとしてのそれであり、更なる一つはリアリストとしての足場である。
理想(ロマン)を掲げない者に親しみを覚えることは出来ない。
現実(リアル)を無視しては実効性のある計画を立てられない。
しかし理想にのみ走る者は絵空事に翻弄されるし、現実のみを見続ける者は、無味乾燥に過ぎて人間としての味わいを喪ってしまうモノである。

ゆえにも、常にロマンチストとしての足場とリアリストとしての足場のふたつを踏みしめ、そのバランスを考えている人間こそが、正しく物事を推進出来るのだと、私はそう思い続けている。

同様の回路で、私は「情」と「理」というものについて考えてみた。
情も理も、共に長所もあり短所もある。
情の長所を採って「情に篤い人」という褒め言葉がある。
しかしその短所を採って「情に流される」とも言う。
理の長所を採って「とても理に叶っている」と言う。
しかしその短所を採って「理屈だけでは駄目なんだ」などと云う言い回しがある。

つまり理一辺倒の人は『論理的』ではあるが人情味に欠け、情一辺倒の人は『情け深い』人ではあるが、論理的結論を無視してしまうことがあるのである。

そう思えば、自らを理の人間であるという風に認識している人間は、知らず識らず自らの行動・主張を情でカバーしようとするようである。
又逆に、自らを情の人間であると認識している者は、知らず識らずのうちに、自らの主張・行動を理に照らし、理に叶うものにしようとする。

その結果、面白いことに、一見「情の人」と思しき人が実は「理の人」であり、「理の人」と思える人間が案外「情の人」である場合がある。

成る程!と私は妙に納得する。
その納得は『情理を尽くす』という言葉の妙味についてである。
論理だけでは何かが欠けている。
道理という言葉もあるにはあるが、それは何やら道徳臭くて、堅苦しさがついて回る。
何かにつけ、対人関係に於いて常に我々が期待するのは『情理』の尽くされることである。

其れは情と理のどちらが先行していても構わない。
その二つがシッカリとした足場を築いていて、その都度そのバランスが思索の前提に成っていたなら、その主張・行動は理解出来ようというものである。

by tennkozann | 2017-03-07 11:18 | Comments(0)