鎮西上人の遺跡を巡るなら絶対に外すことの出来ない油山。
現在は臨済宗正覚寺があり、油山観音として知られ観光客も良く訪れるところ。
博多の町が一望出来て、博多ドームを遠望することも出来る。
鎮西上人霊蹟と刻字された巨大な碑が、浄土宗関係者によって建てられている。
案内板には・・・360の僧坊が有り・・・と書かれてあったが、私がご住職に確認したところでは約700の僧坊があったと云うことであった。
鎮西上人は22歳から30歳まで比叡山で御修行なされ、その後この油山で学頭に成られ、弟子達が先を争ってその門に集まったのだと伝えられている。
そしてそこまでになっておられた鎮西上人であったのに、縁あって法然上人の弟子となり、43歳で九州に戻ってこられてからは、天台から「念仏一筋」の道を選ばれた。
油山参拝を終えた後は、一路吉野ヶ里遺跡へ。
亡妻の分骨の為に訪れた帰路、娘と立ち寄ったのがおよそ10年前。
わずか10年ばかりで随分様変わりをしていた。
しかし勿論記憶に残っているところもある。
数千年前、我々の先祖はどんな生活をしていたのか?
多分弥生人に追いやられたのであろう縄文人の生活はどんなであったのか?
食事は?衣類は?役割分担は?他の集団との交流は?言葉は?と、知識のない分想像が広がり、少なくとも私はこういう空間に佇んで飽きることが無い。
主となる建物の最上階で祈りを捧げる巫女の人形があった。
『祭』と云う字が、「肉」と「斧」と「示」からなる会意文字で、お供え物をして神意を伺った「信仰の原型」とでも云うべきものを表している。
昨今の『お祭り』に興じる面々は、そんな事にほんの少しでも思いを馳せることがあるのだろうか?等と、余計な事が頭をよぎる。