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贅言とは 言うまでもなく 言う必要のない事・・である


by tennkozann

知識と味わい

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ただの物知りを偉いなどとはつゆ思う事も無いが、然るべき知識が不足していて折角の出会いを味わえない事ほど勿体ないことは無いと思う。
人は知識の程度に応じて其れを味わい、味わいはその人間の深さに比例するのだと私は思う。

例えば過日訪れた東長寺にあった巨大な五輪塔。
其れが黒田藩歴代の墓石と云うことは案内板で誰でも知れるところである。
しかし、その手前にも数基一回りばかり小さな(と云っても相当に大きい)五輪塔が並んであったが、其れが何なのかを知ると知らないとでは大きな差がある。
其れは紛れもなく黒田藩重臣の墓石である。

わずか数百年遡るだけのことであるが、当時藩主が逝去すると、重臣達の中に殉死する者があったのは、或る意味で特別なことでは無かった。
そしてその又家来達が殉死すると云うことが続くのであるから、大きな藩に於いて藩主が亡くなると云う事は、その後数十人の殉死が有ると云うことでもある。

嘗て尾張徳川家の御霊屋を覗いたことがあるが、そこには歴代藩主の巨大な位牌を頂点に、恰もピラミッドの如く大中小と相当数の位牌が並んでいた。
藩主の家来、その又家来、その又家来から使用人に至るまで陸続と殉死が続いたのであろう。

その僅かな知識が私に見せるものは「生きる事の意味」である。
善し悪しの賢しらを云う前に、わずか数百年の昔、人はそれほどまでに私心を捨てて何かの為に生き、その何かが姿を消す時、一も二も無く自ら命を絶つという、そんな生き方があったのだと、ただただその事を思う。

事程左様に、人は自らが持つ知識の程度にしかものを味わうことが出来ない。
似た様な五輪塔がいっぱい在ったなどと云う感想は、殆ど犬や猫の記憶である。
大きさの違う位牌がいっぱい在ったなどと云うのも、小学生レベルの感想文である。

我々は、如何に見聞を広めたつもりで居ても、然るべき味わいをしている人から見れば、その犬や猫や小学生と大差ない事を繰り返しているのではあるまいか。

事、思いがここに至れば、日暮れて道遠しと雖も慚愧に堪えないところである。

by tennkozann | 2017-11-22 04:05 | Comments(0)