問題は常に『私』の側にある

f0211225_1593460.jpg「難しい本」は、確かに在る。
しかしその難しい本の中にも、その原因が本の側に在るのでは無く、読む私の側にこそ在るのだという場合がある。

つまり、読む側に明確な問題意識が発生した途端、それまで難しいと思っていた内容が、余りにも平易且つ快適に理解出来るようになる。
所謂『目から鱗』の如き状態である。

稀代の念仏者であった故別府信空上人の知遇を得た頃、上人は「その本を読めば、著者がお念仏をしている人であるかどうかと云うのは即座に解る」と仰った。

当時の私は、同じ言葉を使い同じ文字を使いそして格別目新しいことが有る訳でも無い仏教書を読んで、其れによって著者がよくお念仏をしている人であるのか?若しくは理屈だけの人であるのか?等解る訳が無い、と考えていた。

しかし、自分がそれなりにお念仏を行じる様になってからは、確かに其れまでいまいちピンとこなかった本が、実にサクサクと読み進められるようになってきた事を実感した。
勿論そのお念仏というのは定期的な法要でほんの少しばかり申す念仏でも無ければ、何かのイベントで一種のパフォーマンスに過ぎない念仏を一時間ばかり申すというものでも無い。

そして同時に、如何に巧みな論理の展開が為されていても、読むに値しない仏教書というものも、私の中では明確になってきた。

其れは例えば、美味しい物を探すのが先か?腹を空かせるのが先か?と云う問題と類似している。
満腹状態で、更に美味しい物を探すなどと云うのは、愚の骨頂である。肥満の原因とも成ろう。
更に其の上『イマイチ美味しくないね』などと言おうモノなら、それは食べ物に対して失礼というものである。
空腹の場合は何でも美味しく、そして其れは身につくものである。

畢竟、自他を対立させて、其処に発生する問題を常に『他』に転嫁するというのは、いつの場合も正しい答を見いださない態度だと云う事である。
問題は勝れて私の側にある。
其れは読書といえ食事といえ、自分の周辺で起こる事は全て同じ様なものである。

私は私自身のことを考えると共に、何かにつけて自らを省みようとしない人に対して、その事を声を大にして言いたいことが多くある。
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by tennkozann | 2017-02-10 15:13 | Comments(0)