無有好醜の願

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柳宗悦の「美の法門」を初めて読んだ際、柳の小躍りするような喜びが伝わってきた。
「そうか!そうか!美は既に用意されていたのか!」と云う、小躍りするような喜びの原因を、柳自身の言葉として聴くような実感があった。

本来仏教哲学者であったが故に触れ得た無量寿経の、四十八願中の第四願。
即ち「設我得佛 國中人天 形色不同 有好醜者 不取正覺」(無有好醜の願)に触れて彼は小躍りしたのである。

つまり経典の説くところは、阿弥陀仏となる前の法蔵菩薩が「もし私が仏になる事ができても、私の国の天人や人々の姿や色が同じではなく、そこに美醜の差があるならば、私は決して仏になりません」と願を立て、そしてめでたく阿弥陀仏となったのだから、もはや美醜の差が無い世界が実現しているのである。

然るに、我々が生きる世界には厳然として美醜が存在する。
それは詰まり、人間があるべき姿を生きているのでは無く、自らの欲望を中心に生きる事で、美醜を創り出しているのである。

そうとすれば、人間が美醜を考える以前で物作りに励むならば、人間の作り得るモノは全て美しく出来上がる、それを立証したのが所謂民藝であると、柳の説はそのように纏めて良い、と思う。

柳の言葉を借りるなら『芸術というと、すぐ天才が連想され、才能がない者は到底駄目なように考えられますが、それは芸術の道を強いて美醜の葛藤という難路に導くためで、それ故に力量の秀でた者が必要となってくるに過ぎないのであります。
美醜の闘いの絶える世界に住むとしたらどうでしょう。天才という特別な人を待たなくても、ただ人間本来の面目に帰れば、どんな人といえども、そのままで美しい作品が生めるはずです。
この真理は、例えば未開人と呼ばれる人々の仕事に、しばしば素晴らしい作品が見出されるのでも分かります。
彼らの心は純で自在でまだ分別に自らを縛らないために、作るものがいずれも活々としてくるのであります。』と云う事になる。

この延長線上で、骨董の価値を考える事も可能である。
なぜ古びたものが美しいのか?なぜ古びたものに多額の投資をする者があるのか?
それは希少価値に対してであると云う考えも勿論あるであろう。
しかしそれは大きな理由とはならない。

つまり、人工のモノは如何に要らぬ作為が施されていなかったとしても、抑も「創る」と云う事が既に十分作為なのである。
しかしその作為が最小限に抑えられていた場合(素材を最大限に活かしていた場合=『我』を極力排除していた場合)、それは時間の経過の中でより自然に戻っていくのである。
戻っていく先は「美醜以前=絶対美」の世界である。

ふむふむ!私はひとり心底納得している。
この事を宗教的に纏めるなら、だからこそ「還愚痴」という事が、真の信仰の重要テーマとなるのだと云う事になる。

私の柳理論に対する理解が、又ちょっと深まったような気がする。
ただ、多分これを読む多くの人は、何をグチャグチャ独り言しているのだと云う事にも成ろうがヽ(^o^)丿

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by tennkozann | 2017-08-26 06:24 | Comments(0)