保月城を下りていく私の後ろ姿。
撮った人の巧さは言うまでも無いが、写された私としては、望遠効果と相俟って悪くない一枚・・・と思う。
「我」とはなんぞや?などと云うのは、とても私如き頭脳の能く追究し得るところでは無い。
ただ、私が認識する世界は「私」と「私以外」で構成されているのだというのは間違いない。
其れは主体・客体などと言い換えられるものであるが、その主客という問題も亦、私如き者の手に合う問題では無い。
それでも尚、私は「私と私以外」の関係について種々思いを巡らす事がある。
そしてその「私と私以外」の間に「理解」という橋を架ける事が、人間の成長と信じて疑わない文化の有り様に、私は長く疑問を抱き続けている。
今年の一日別時会で、私はその事に関して「理解と同化」というタイトルで一席話をするつもりだ。
しかしそれにしても、生まれてこの方ずっと「私」と認識しているそいつの後ろ姿を両の目で見た事が無く、今後も見る事が無いという、その私というのは一体何なのだろう?