
「自分の足下をよく見なさい」などと注意を促す言葉がある。
確かにその通りだ。
足下を見ずに夢ばかり語っているなどと云うのは実に愚かなことである。
ゆえにも、禅宗では「脚下照顧」を大事にする。
しかしである。
現実に、足下をひたすら見つめて次の一歩を決めるというのであれば、自らの足は水たまりを避け石ころを避け、ふと気づいて顔を上げれば、何のことは無い僅か1メートルばかりの円内をグルグル回り続けていた等と云う事になりかねない。
目はしっかりと太陽(希望)を見据え、そこに多少の水たまりがあろうが石ころに躓こうが、果敢に前進を続けなければ、真に歩を進めると云うことになら無いという事も考えておくべきである。
大いなる希望・有るべき理想を掲げ、果敢に其処に立ち向かおうとしない者が常に口にする言葉がある。
彼らはよく足下を見つめている。そして言う。
「確かにそれは理想だけど、矢っ張り無理だな。実現不可能だ」と。
彼は「無理だ・不可能だ」と云う壁を作れば、自らは其の壁に守られると考えているのである。
否!左様な考え方が見事に身についていて、ひたすら其れで人生を歩んできているのである。
彼が考えているのは、いつの日も自らを守る壁を如何に作るか!でしか無い。
その為には理想など一顧だにする必要が無いのである。
否!否!理想など掲げては成らないのである。
彼にとって唯一のタブーは『理想』なのである。
私は自らの足下を見つめて、斯かる面々と付き合って行くのが浮き世の義理というものか?と溜め息を繰り返すことがある。
だから勿論、私は左様な足下を一切無視して行動を起こす時が、自分の確かに「生きている時間」だと思う。
今月末、浄土宗兵庫教区教化分団長会議で1時間半ばかり話をすることになっっている。
彼らに向かって何を話すか?を考えていて、ふむ!こういう路線の話をして、有象無象を敵に回すのも一興である!などとほくそ笑んでいるのである。
呵々!